◆「泣く子は育つ」と言われている中、私はあまり泣かない方でした。
私自身、「あまり泣かない幼少期」は、よろしく無かったと思っています。
◆人の「赤ちゃん」は泣きます。
ペットの「赤ちゃん」も、涙は流さないものの、鳴き声をあげます。
これらは、空腹であるとか体調の異変を、親や飼い主に知らせるためにあると聞いた事があります。
なので、幼いコの「涙・鳴き声」は、とても純粋であり、尊重すべきだと思っています。
◆さて、私の涙につきまして・・
これまで、大号泣したのは、以下の3パターンだけでした。
①今も変わり無い事ですが、映画のワンシーンで、主人公が成功を果たした時。
また、重低音がある音楽を聴いて感動する時。
いずれも感動の涙であり、この先も不変だと思います。
きっと、自分自身が成功したその都度その都度を、回想するのかも知れません。
②20年くらい前に、父が心筋梗塞だったか狭心症だったかで倒れて、入院した時でした。
その連絡を受けた私は、仕事があったので、その病院には行けませんでしたが、新幹線の中で大号泣しました。
その時の私の独り言は、「こわい」でした。
③親族の訃報を聞いても、なぜか涙がでません。
しかし、私が大きな恩を返した後に逝去したオバの墓前では、1時間半に渡り一方的に語りかけながら、号泣しました。
◆私は、かつて失恋した都度も、どういうわけか泣いた事がありません。
大失敗した時も涙しませんでした。
それはきっと、無意識の内に「反省」というものに変えていたからかなのかも知れません、
◆「涙」と「号泣」とは、まったく別物だと感じています。
人の「号泣」とは、鼻水を垂れ流して自己の表情など無にすると思うのです。
あらゆる「謝罪・親族の他界」の「報道会見」の場で、涙を出している人は多いです。
もしもその場で、ハンカチで涙を拭うなどするなら、「本当の涙」とは感じ得ません。
なぜなら、「悲しみ」より「体裁」を重要視していると感じるからです。
◆ウソ泣きを出来るのは、人間だけです。
ですが私、ウソ泣きを否定しません。
その人の精一杯のアピールかも知れませんし、はたまた「ウソ泣き」と決めつけるのは不可能だからです。
なにしろ、その人に直接会ってみて、その「心境」を聞いたわけではありませんから・・。
◆なにぶん、人の「心」は奥深いと思う昨今でございます。
それは、喜びも悲しみも・・
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