蓮室 あきら

1970年生まれ。大阪市在住。既婚。本来は、テキトー男。ジャーナリスト・コラムニスト。様々な場面から得た、新たな発見、癒された事、穏やかな気持ちを、日記にしています。【この名前でも、実名の漢字でも、執筆・掲載した事はありません。(プライベート日記です)】

人の 涙


◆「泣く子は育つ」と言われている中、私はあまり泣かない方でした。


私自身、「あまり泣かない幼少期」は、よろしく無かったと思っています。





◆人の「赤ちゃん」は泣きます。

ペットの「赤ちゃん」も、涙は流さないものの、鳴き声をあげます。




これらは、空腹であるとか体調の異変を、親や飼い主に知らせるためにあると聞いた事があります。



なので、幼いコの「涙・鳴き声」は、とても純粋であり、尊重すべきだと思っています。









◆さて、私の涙につきまして・・


これまで、大号泣したのは、以下の3パターンだけでした。





①今も変わり無い事ですが、映画のワンシーンで、主人公が成功を果たした時。



また、重低音がある音楽を聴いて感動する時。



いずれも感動の涙であり、この先も不変だと思います。


きっと、自分自身が成功したその都度その都度を、回想するのかも知れません。






②20年くらい前に、父が心筋梗塞だったか狭心症だったかで倒れて、入院した時でした。



その連絡を受けた私は、仕事があったので、その病院には行けませんでしたが、新幹線の中で大号泣しました。



その時の私の独り言は、「こわい」でした。







③親族の訃報を聞いても、なぜか涙がでません。



しかし、私が大きな恩を返した後に逝去したオバの墓前では、1時間半に渡り一方的に語りかけながら、号泣しました。







◆私は、かつて失恋した都度も、どういうわけか泣いた事がありません。


大失敗した時も涙しませんでした。




それはきっと、無意識の内に「反省」というものに変えていたからかなのかも知れません、







◆「涙」と「号泣」とは、まったく別物だと感じています。




人の「号泣」とは、鼻水を垂れ流して自己の表情など無にすると思うのです。




あらゆる「謝罪・親族の他界」の「報道会見」の場で、涙を出している人は多いです。



もしもその場で、ハンカチで涙を拭うなどするなら、「本当の涙」とは感じ得ません。


なぜなら、「悲しみ」より「体裁」を重要視していると感じるからです。






◆ウソ泣きを出来るのは、人間だけです。



ですが私、ウソ泣きを否定しません。



その人の精一杯のアピールかも知れませんし、はたまた「ウソ泣き」と決めつけるのは不可能だからです。



なにしろ、その人に直接会ってみて、その「心境」を聞いたわけではありませんから・・。









◆なにぶん、人の「心」は奥深いと思う昨今でございます。



それは、喜びも悲しみも・・









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